1)高砂染とは

江戸の人々を魅了し、
幕府や皇室に献上品としてつかわれた幻の高級染物「高砂染」。

松の枝と葉がちりばめられた独特な図柄と、
播磨地方ゆかりのモチーフとの重なり合いは、
郷愁とともに普遍的な美しさを感じさせてくれます。

江戸時代、高砂町の尾崎庄兵衛によって開発された染物と言われています。

ーーー(昭和55年4月発行「高砂町誌」より)ーーー

「慶長の頃、高砂鍛冶屋町に尾崎庄兵衛という人がいました。父祖の業をついで鍛冶職を営んでいました。

庄兵衛は、常に考える人でした。

たまたま、領主池田輝政が民間の生業を奨励するに当り、庄兵衛を召して染色をさせました。

庄兵衛は日夜思いをこらし遂に一種の染め物を創案し、これを輝政にすすめました。それは、紋様が鮮やかで見事な出来栄えでした。

そこで、輝政は庄兵衛を姫路に出府させ、これをつくらせて、「おぼろ染」と名づけました。

当時この「おぼろ染」は輝政の紹介もあって諸藩士、業界に用いられ、庄兵衛はその用達に努めました。

後年、高砂の自邸でその業を営み「高砂染」と改称し、以来これを家業として高砂染は高砂の名産となりました・・・」

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高砂染は江戸時代から昭和の初期まで、高砂や姫路を中心とした西播磨の地域で染められていたもので、
主に松影の模様を型染で染め出したことから松影染とも呼ばれています。
高砂染の松の枝や葉は、高砂にある相生の松をイメージした柄を黒または藍の色で影絵のように染め出しています。

相生の松というのは、一つの根元から二本の幹が寄り添って生え出た松のことで、夫婦が深い契りで結ばれ、
ともに長生きすることの象徴ともなっています。
高砂染はこの相生の松をそのまま絵画的に取り入れたのではなく、
松の枝が網目のように張りめぐらされたり、松葉を一面に敷きつめたりと、抽象的で独特な図柄となっています。

高砂染はそのデザインだけでなく、染め方にも独自のものが見られます。

江戸末期の風俗史である喜多川守貞の『守貞漫稿』巻之十九(1)に、
高 砂染 播ノ姫路等ニテ製之、縮緬及紬、絹、木綿モ有之、二重形染ニテ色無定、濃淡二染、或ハ、別色ノ濃淡モアリ、松二因アル形、 或ハ尾上鐘ノ紋ヲ種々に 摸染ス、蓋二重形ノ中二、松葉等種々小點ヲ列ネ描キ、二重トモニ形二除之、故ニ濃淡二色ト、小點ノ模様、白ニテ三色トナル。

とあります。
ここに も書かれている通り、型紙を二枚用いて糊防染し藍や鼠、薄紅などに染める。
次に、先程の防染糊を落とさずに、そのまま二枚目の型紙を置いて、主に松枝の模様を糊置きし、黒色に引き染めする。

いわゆる二枚の型を用いた二重型染でありますが、一度目に置いた糊を洗い流さずに、二枚目の型を置くところが特徴となっています。

ただ、現存する高砂染の実物資料は、藍一色で、浴衣や手拭いなどに用いられた一枚型のものが殆どのようです。

18 世紀半ばに姫路藩の進物に用いられた高級品として活躍した高砂染は、藩の保護の下、江戸、大坂等への輸出も行われ、姫路藩の国産品として名声を高めましたが、
明 治になって藩の保護を離れてからは民間向けに木綿を中心とした製品となり、型も二枚型を省略して一枚型が現れ、大正時代になると型紙を伊勢に発 注する手間を省略してコストの削減を図るため絞りへと転換していき、絞りの全盛期を迎えたようです。こうして高砂染は昭和初期に実質的に消滅したと思われ ます。

江戸時代から昭和にかけて人々を魅了し、

郷土の世界観と自然美を精緻な技巧と高い芸術性で表現した「高砂染」。

2016年。
幻の逸品「高砂染」は新たなデザインを得て、
現代の世によみがえります。

新たな「高砂染」の物語をお楽しみください。

参照元:
高砂物産協会サイト
『姫路美術工芸館紀要3』