江戸時代、五十五万石の大藩・姫路藩が徳川幕府に献上するための特別な染め物として興った「高砂染」。
能の筆頭祝言曲「高砂」に謡われる”ことほぎ”の精神を「高砂柄」に込め、重宝されてきました。

私たち株式会社エモズティラボは、「高砂染の再興」を目指し、高砂染について様々な研究や活動を行ってきました。

◆「高砂染」について

「高砂」

「高砂(たかさご)」という言葉、多くの方は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
現在では、結婚式の披露宴で新郎新婦が座る席の呼び名などとして一般化しています。
これは、能の筆頭祝言曲『高砂』に由来しています。

このめでたき謡曲は、世阿弥が創作した室町時代から江戸時代まで、特に徳川家をはじめとした武士階級の人々に重んじられてきました。
『高砂』では、高砂神社の「相生(あいおい)の松」を、一つの根元から雌雄二本の幹が生える「夫婦和合の象徴」と見立てています。

「尉(じょう)と姥(うば)」すなわちイザナギ・イザナミの化身である老夫婦の精が、この相生の松には宿っていると信じられていました。
江戸時代、『高砂』は、その言葉だけで「めでたさ」「ことほぎ」を象徴するような概念だったのです。

「高砂染」

高砂染では、相生の松をしたから見上げたような、無限に連続する松枝の紋様に、尉と姥のもつ「熊手」と「竹箒」が幸運の象徴として重ねて染め抜かれています。
他にも鶴や扇など様々な吉祥紋が重ねられました。

最初の型の糊を置いたまま、2つめの型と糊を置くという珍しい「ふた型染」技法によって、この複雑精緻な文様は染め出されています。
高砂染の長い歴史の中で様々な変遷を遂げてきましたが、いずれも当時の染屋・型屋が自らの腕を競い会った往時の足跡であるとも言えましょう。

◆高砂染の歴史

「高砂染起源二説」

高砂染の起源としては、二つの説が唱えられています。高砂町の尾崎庄兵衛が創始したという説と、姫路城下紺屋町の相生屋井上勘右衛門が創始したという説です。どちらも実在の人物であり染物屋を営んでいたことは間違いないため、学術的にも真偽のほどは確かではありません。
私たちエモズティラボでは、二大創業家の現当主の方々にご協力をいただきながら、高砂染に関わる活動を行っています。

・高砂・尾崎説

ある時領主の池田輝政が、高砂の尾崎庄兵衛を召して染色をさせました。庄兵衛の染めは鮮やかで見事、輝政は庄兵衛を姫路に出府させ、作らせました。後年、庄兵衛は高砂の自邸でその業を営み「高砂染」と改称したと言われています。

・姫路・相生屋説

相生屋の先祖は、徳島の藩士・井上徳右衛門といい、姫路に渡ってきた五代目・勘右衛門に至って、藩主・酒井侯により松の模様を染めて献上し、相生屋の屋号を賜わったと伝わっています。

「高砂染の発展」

高砂染が世の中に知れ渡るのは、江戸時代後期の姫路藩家老河合寸翁(かわいすんのう)による特産品奨励策でした。当時、姫路城下を中心とする多くの染屋によって高砂染の生産が進められ、染屋や型屋はこぞって新しい柄の高砂染を生み出しました。
絹地の高級品は、幕府や朝廷への献上品として重宝される一方、時同じく特産品として生産が奨励された木綿への染めも盛んになったことで、高砂染は一般大衆にも広く親しまれるようになりました。

「変容と衰退」

明治維新によって幕藩体制は崩壊。高砂染も姫路藩という後ろ盾を失います。徐々に染色工程の簡素化のため一重の型が主流となり、染料も藍一色で染められるようになってきました。また、絞り染めの技法も混合して使用されるようになり、そうして高砂染の特色は次第に失われていきました。
昭和初期には、高砂染は産業として廃絶したと考えられていますが、多くの染屋が軒を連ねた姫路中心部が戦火に焼かれたこともあり、染型はほとんど見つかっていません。
古布は時折近隣の倉などから見つかるものの、明治以降の比較的新しい木綿布がほとんどです。
その起源から廃絶まで約300年の高砂染の変遷を辿る旅は、まだ始まったばかりなのです。

◆高砂神社

現在、高砂神社の境内には、五代目相生の松が青々と根を張っていますが、江戸時代高砂染のモチーフにされた三代目の相生の松も同社内の霊松殿に祀られています。

江戸初期から数百年の長きを生き、奇しくも高砂染と同じく昭和初期に枯死してしまったものの、現在も往時の威容を垣間見ることができます。
高砂染全面に施された複雑な松枝の文様を眺めていると、霊松として崇められた当時の相生の松の不思議な力が表現されているようにも見えてきます。

高砂神社は、現在でも特に能楽師の方にとっては特別な地。
皆様も、もし興味をお持ちいただけましたら、高砂神社に訪れていただき、往時の『高砂』の空気を肌で感じていただければと思います。